2025年4月15日、無幻舎より写真集『Artifacts in the mountains』を刊行しました。
山の中に捨てられたゴミや人工物。それらは本来、風景から取り除かれるべきものなのかもしれません。しかし、そこにカメラを向けることで、これまで見えていた風景は少し違ったものになります。
何を自然と呼び、何を人工と呼ぶのか。何を美しいと感じ、何を風景として見ているのか。『Artifacts in the mountains』は、山に残された人工物を通して、私たちの「見ること」そのものを問いかけます。
今回は作品の成り立ちから、写真集として形になるまでの経緯、オオキさん自身の写真との出会い、変化した写真との向き合い方や、これから写真とどう関わっていきたいのかまで、話を聞きました。(メールインタビュー)
聞き手:武田幸丈

『Artifacts in the mountains』について
── 今回の写真集の作品を撮り始めたきっかけを教えてください。最初から一つの作品としてまとめることを考えていたのでしょうか。
最大のきっかけは「京都芸術大学写真コース」の卒業制作です。もともと私は、山登りをライフワークの一つとして続けており、その中で感じていた「風景の中にある違和感」を、自分なりの表現として作品にできないかと考えていました。山を歩きながらゴミを拾うという行為も以前から続けていたのですが、その中で目に入ってくる人工物を単なる「ゴミ」としてではなく、一つの被写体、あるいは風景の中に存在する「主人公」として捉えてみようと思ったのが、この作品の始まりです。最初から現在のような写真集を想定していたわけではありません。撮影と試行錯誤を重ね、先生からの指導を受けながら、自分が感じていた違和感を少しずつ作品としてまとめていきました。
── 山を歩くときは、最初から人工物を探しているのでしょうか。それとも歩いている途中で偶然出会ったものを撮影するのでしょうか。
もともとは山登りを目的に歩き、その中で風景写真を撮影していました。転機になったのは、コロナ前とコロナ後に同じような山を歩いたときに感じた違和感です。コロナ前には多くの人が歩いていた登山道にゴミが残っている一方で、コロナ後に入山者が少なくなった登山道では、目に見えてゴミが少なくなっていました。その中で見つけたのが、一枚の新聞紙でした。人の出入りが少ない場所に、まだ新しい状態の新聞紙がゴミとして残っていた。雨などによっていずれ自然に還っていくのかもしれませんが、その新聞紙を見たときに、単なるゴミではなく、「人間と山」「人間と森」が交わった痕跡のように感じました。そこから、山の中に残された人工物を意識して見るようになり、偶然出会ったものを撮影することから、この作品が始まりました。
── 山では雄大な自然や美しい風景に目が向きやすいと思います。その中で、人工物に目を向けるようになったのはなぜでしょうか。
風景写真では、「美しい自然を見た人に綺麗に見える様に写すこと」が一つの前提として受け入れられているように感じていました。その中で、現代において自分が風景写真を撮るのであれば、単純に美しい風景を撮るだけではなく、自分自身が山で感じてきた違和感を、どのように美術的な表現へ変えていけるのかを考えました。そこで、ライフワークとして続けていた山でのゴミ拾いに着目しました。普段なら風景から排除される「捨てられたゴミ=人工物」を、あえて風景写真の中のモチーフとして捉えてみる。ゴミを風景から取り除くのではなく、一度そこにあるものとして見つめ直すことで、これまで見ていた「自然の風景写真」とは違う風景が見えてくるのではないかと考えたのです。
── 人工物がかなり小さく写り、見る側が写真の中からそれを「見つける」ような写真もあります。被写体との距離や、画面の中での大きさはどのように決めていますか。
撮影を始めた当初は、「画角の下にゴミを入れる」という自分なりのルールを設けていました。しかし、撮影を続けていく中で、そのルールだけでは自分が感じている違和感を十分に表現できないことに気づき、少しずつ画角や被写体との距離を試行錯誤するようになりました。中には、カメラをかなり近づけなければ見えないようなゴミもあります。一方で、遠くから見ると単なる風景にしか見えない写真の中に、よく見ると人工物が存在しているという構図も意識しています。また、ゴミの種類についても分類するようになり、ビニールやペットボトルなど、石油化学製品、特にナフサを原料とするような人工物を一つの軸として撮影しています。「見えているのに気づかない」という状態そのものを、写真の中につくりたいと考えています。
── 石油化学製品、特にナフサを原料とする人工物を一つの軸にしているとのことですが、その分類に至った理由をもう少し聞かせてください。
山や森で見つけたゴミを観察していると、時間が経過しても残り続けているものには、石油を原料とする製品が多いことに気づきました。新聞紙などの紙製品は比較的早く自然に還っていく一方で、ペットボトルやビニール、タバコのフィルターなどは、長い時間が経過してもその場に残っています。そうしたゴミを拾い、写真に収めていく中で、結果的に石油化学製品が作品の大きな軸になりました。最初から明確な分類を設定していたというよりも、実際に山や森で見つけ、撮影できるものを集めていく過程で、その傾向が見えてきたというのが正直なところです。身近な人工物が自然の中に長く残り続けている。その事実が、私にとって撮影を続ける理由の一つにもなっています。

── 人工物が時間とともに古びたり、自然の中に取り込まれていったりする状態にも惹かれるのでしょうか。
はい。そこには非常に興味があります。自然の中に人工物が存在している状態を見ていると、ふと古代文明の遺物のように感じることがあります。今は「ゴミ」と呼ばれているものも、何百年、何千年という時間が経てば、それを使っていた時代の人間や文明を知るための「artifact(人工遺物)」になるのではないか。そう考えると、現在では価値がないものとして扱われている小さなゴミにも、時間の中では別の価値が生まれる可能性があります。もちろん私は、そうしたものがartifactになる前に拾ってしまっています。しかし、物理的に拾うことのできないものや、誰にも発見されずに残っていくものもあります。自然の中に溶け込み、風景写真とほとんど同化しているゴミを見ることで、「これは自然なのか、人工物なのか」「そもそも風景とは何なのか」ということを考えています。
── 『Artifacts in the mountains』というタイトルには、どのような意味を込めていますか。特に「Artifacts」という言葉を選んだ理由を教えてください。
山の中に捨てられたゴミは、誰にも見つけられず、そのまま放置されれば、いつか未来の人間にとって「artifact」になる可能性があるのではないか、と考えたことがタイトルのきっかけです。現在の私たちにとっては単なるゴミでも、何百年、何千年という時間を経た未来の人間から見れば、それは過去の文明や生活を知るための人工物、あるいは遺物として発見されるかもしれません。ただ、私はそのartifactになる前に拾っています。だからこそ、この作品には少し矛盾があります。未来の遺物になるかもしれないものを、私は現在の価値観によって「ゴミ」と判断し、回収している。それでも、拾うことのできないゴミや、誰にも見つからないまま残っていく人工物は存在します。何千年後かにそれが発掘されたとき、未来の発見者には一体どのように見えるのか。その想像を含めて、「Artifacts in the mountains」というタイトルを付けました。
── 今回撮影した場所や人工物の中で、特に印象に残っているものはありますか。
特に印象に残っているのは、冷蔵庫や電子レンジです。一人で持てる程度の大きさの産業廃棄物が、登山口から入って500メートルにも満たない場所に捨てられていることに強い違和感を覚えました。さらに不思議だったのは、トラックや受水槽など、人間一人の力では簡単には運べないような大きな産業廃棄物が、山の中に残されていたことです。そこには「なぜ、ここにあるのか」という疑問があります。その登山道には、かつて舗装されていない道路があったとも考えられます。過去にどこまで人が入り、何が運ばれていたのか。土地の歴史を調べれば、その理由が見えてくる可能性がありますが、現時点ではまだ分かっていません。だからこそ、この場所についてさらに時間をかけて調べ、土地の歴史とそこに残された人工物を結びつけて考えてみることにも興味があります。
── 一冊を通して見ると、「自然」と「人工」という二つのものの境界について考えさせられます。オオキさん自身は、この二つをどのような関係として捉えていますか。
まだ自分の中でも答えは出ていません。むしろ、この写真集そのものを使って、「どこまで境界線を引くことができるのか」「第三者から見たとき、その境界はどのように感じられるのか」を実験しているような感覚があります。私自身、ゴミを撮影し、さらにそれを拾って持ち帰るという行動をしています。そこには、「ゴミを捨てることはモラルの欠如である」「自然の中にゴミを捨てることは、人間がしてはいけないことだ」という、自分自身の価値判断があります。しかし一方で、森を維持するためには、人間が間伐や間引きを行うことが当たり前になっています。つまり、人間が自然を守るために自然へ介入することもあれば、人間の介入によって自然とされる状態がつくられていることもある。そう考えると、「自然」と「人工」を明確に分けること自体が、本当に可能なのかという疑問が生まれます。この作品では、その境界を自分自身が決めるのではなく、見る人にも問い返したいと思っています。

── 「ゴミを捨てることはモラルの欠如だ」という価値判断を持ちながら、それを美術作品のモチーフとして見ることについて、ご自身ではどのように考えていますか。
正直に言えば、ゴミを捨てることはモラルの欠如だと思っています。一方で、自然の中に捨てられたゴミが生み出す不思議な空間や景色は、ある種、現代の風景そのものとも一致するのではないかと考えるようになりました。登山をしていた頃の私は、ゴミを見つければ拾って帰るのが当たり前であり、ゴミを捨てることは悪いことだという認識に疑問を持つこともありませんでした。しかし、自然の中にある不可思議なゴミを写真に収めるようになってから、自分自身の価値観を改めて見つめ直すようになりました。ゴミは人間が持ち込んだ人工物であり、自然の中だけでなく、人工的な建造物の周辺にも存在しています。それにもかかわらず、私たちは日常の中で、そうしたものをいつの間にか見慣れた風景として受け入れているのではないでしょうか。もちろん、ゴミを捨てることで景観が損なわれることは、決して良いことだとは思っていません。しかし、ゴミを拾うという行為と、ゴミを美術作品のモチーフとして見るという行為の間には、矛盾があるようにも感じています。その矛盾も含めて、ゴミのある風景を通して、現代の風景とは何なのかを考えています。
── 「美しい自然を美しく写す」という従来の風景写真への違和感が、この作品の出発点の一つだったと思います。その違和感によって現在、「風景写真」「美しい写真」はどのように見えていますか。
私は以前から、美しい風景を写真によって芸術的に表現したいと考えてきました。一方で、綺麗な風景や人の心をつかむ写真は、ある程度、意図してつくり出すことができるとも感じています。今回の作品では、ゴミが捨てられた風景をあえて撮影することで、見る人に違和感を感じ取ってもらいたいと考えています。普段なら見過ごしてしまうような光景に目を向けることで、見慣れた風景が少し違って見えてくる。その不思議な感覚を、現代の風景写真として第三者にも感じてもらえたらと思っています。私にとって、風景写真とは単に美しい景色を写すものではありません。何を美しいと感じ、何を風景として認識するのか。そのこと自体に、どこか不思議さがあるのではないかと考えています。
── 今回の作品を見る人に、何か特定のメッセージを受け取ってほしいという思いはありますか。それとも、見る人それぞれの解釈に委ねたいと考えていますか。
特定の答えを提示するというよりも、見る人それぞれに考えてもらいたいと思っています。自然の中にあるゴミは、そこに存在していても、無関心であれば見つけることができません。風景に溶け込んでしまった人工物は、いつの間にか「風景の一部」として見過ごされてしまいます。一方で、私たちは普段、風景写真を見るときに、その場所の美しさや雄大さに目を向け、そこに写り込んでいる小さなゴミには気づかないことがあります。では、ゴミが写っているにもかかわらず、それを「美しい風景」として見ることができるのはなぜなのか。逆に、ゴミを見つけた瞬間に、その風景を「汚れた風景」と判断してしまうのはなぜなのか。この写真集では、そうした「見ること」そのものを問いかけています。左右にゴミがあった風景写真と拾った後の風景写真を比較するだけが目的ではありません。「自分はいったい何を風景として見ているのか」「自然と人工物を、どこで分けているのか」。写真を見ることで、そうしたことを少しでも考えてもらえればと思っています。
── 今回の『Artifacts in the mountains』は、どのような経緯で無幻舎に出版を依頼することになりましたか。デザインから印刷・製本・出版まで一括してご依頼いただきました。
武田さんと初めてお会いしたのは、藝術学舎(京都芸術大学の授業)で東川町を訪れ、旭岳に行った時でした。その時は直接お話しする機会はありませんでしたが、卒業制作に取り組むようになってから、主にLINEでやり取りをするようになりました。武田さんが印刷会社を経営されていることに加え、ご自身でも写真集の制作・販売をされていると知り、実際に武田さんの写真集を購入させていただきました。その時に、写真の見せ方はもちろん、印刷や製本を含めた仕上がりのクオリティーの高さにとても魅力を感じたことが、武田印刷さんを意識する大きなきっかけになりました。今回の写真集を制作するにあたっては、さまざまな出版社や印刷会社を調べました。ただ、最終的に私が最も重視したのは、単に品質の良い写真集をつくれるかどうかだけではありませんでした。「これから先も、一生付き合っていけるような出版社や印刷会社はどこだろう」と考えた時に、武田印刷さんにお願いしたいと思ったのです。以前にも、インターネットを通じてZINEを2冊ほど制作した経験があります。手軽に注文できる利点はありましたが、制作の過程で細かな相談をしたり、自分の考えを伝えながら一緒に仕上がりを考えたりすることが難しく、私にとっては少し物足りなさがありました。写真集は、ただ写真を印刷して本にすれば完成するものではなく、写真の並びや紙の質感、印刷の仕上がり、製本に至るまで、細かな選択の積み重ねによって作品としての完成度が変わるものだと考えています。その点、武田さんは私の話をとても親身になって聞いてくださり、一見細かいと思われるような要望や、まだ言葉になりきっていない考えまで丁寧に汲み取ってくださいました。こちらの意図を理解しようと真摯に向き合ってくださる姿勢に、大きな信頼を感じました。技術や仕上がりのクオリティーはもちろんですが、それ以上に、作り手の思いや作品に対する姿勢を大切にしながら、一緒にものづくりをしてくださることが、武田印刷さんにお願いしたいと思った一番の理由です。今回、『Artifacts in the mountains』は、デザインから印刷、製本まで一括してお願いしました。それは、工程ごとに依頼先を分けるよりも、作品の意図を共有した方と最後まで一貫して制作を進めたいと考えたからです。卒業制作のための一冊をつくるということだけではなく、今後も写真集をはじめ、自分の表現をかたちにしていくうえで、長く相談できる存在であってほしいと思っています。だからこそ、今回の出版を一度きりの依頼とは考えていません。写真集に限らず、武田印刷さんにお願いできることがあれば、これからも積極的に相談していきたいと思っています。作品をつくる側の思いに寄り添い、対話を重ねながら、その作品にふさわしいかたちを一緒に探してくださる武田さんと出会えたことは、今回の出版における大きな財産だと感じています。
オオキさん自身について
── 写真を始めたきっかけを、あらためて教えてください。最初はどんなものを撮っていましたか。
幼少期から山登りやハイキングに親しんできました。山頂でテント泊ができるようになった頃、夜空を見上げると、今にも降ってきそうなほど星が広がっていました。その星空を写真に残したいと思ったことが、写真を始めたきっかけです。ところが、撮影して現像してみても、思い描いていたようには写っていませんでした。当時は今のように、インターネットで何でもすぐに調べられる時代ではなく、周囲にも写真に詳しい人がいなかったため、フィルムカメラで星空を撮ることには何度も挑戦しましたが、うまく撮影することができませんでした。その後、ソニーのDSC-F1というコンパクトデジタルカメラを購入しましたが、それでも思うようには撮れませんでした。手元にフィルムカメラ用のレンズが2本あったこともあり、デジタルでもレンズ交換ができるカメラを使うようになりました。最初に撮っていたのは星空です。特に、月を撮ることが好きだったように思います。振り返ってみると、私の写真の出発点は、どちらも夜空にあるものだったのだと思います。
── 好きな写真家、写真集はありますか。どんなところに惹かれていますか。
風景写真を芸術的に表現したいと思うようになったきっかけは、アンセル・アダムスです。特に好きな作品は、《Moon and Half Dome》と《Moonrise, Hernandez》です。現在までに再版された写真集を何冊か購入し、繰り返し見ています。アンセル・アダムスの作品に惹かれる理由の一つは、モノクロ写真における光と影、そして明暗の表現です。特に、11段階の明暗を基準に露出や現像、プリントをコントロールするゾーンシステムには強く惹かれています。ただ、正直に言うと、ゾーンシステムについては今でも理解できていません。それでも、白黒銀塩写真において明暗をどのようにコントロールし、表現へと結びつけるのかという考え方には、大きな魅力を感じています。いつか自分自身の中で納得できるまで理解することも、写真を続ける上での目標の一つです。

── 写真以外に影響を受けたもの、映画、音楽、美術、文学、その他ありますか。
写真以外で大きな影響を受けたものの一つが、音楽です。15〜16歳の頃、アメリカを放浪していた時期にアメリカのラップに興味を持ちました。現在でも、2PAC、Dr. Dre、The Notorious B.I.G.、Snoop Doggy Doggといったラッパーが大好きです。また、18歳から22歳までレンタルビデオ店でアルバイトをしていたこともあり、1990年代から2000年代にかけての映画をよく観ていました。特に好きなのは、クエンティン・タランティーノ監督の『レザボア・ドッグス』や『パルプ・フィクション』、デヴィッド・フィンチャー監督の『セブン』、そして2PACが主演した『ジュース』などです。当時は1日に5本ほど映画を観ることもありました。音楽や映画から受けた影響を、自分の写真表現にどう結びつけているのかは、まだ明確に言葉にできない部分もあります。ただ、今の自分を形づくってきた大切な経験であることは間違いありません。
── 生活の中で、写真はどのくらい大きな位置を占めていますか。写真を撮っていないときにも、写真のことを考えていますか。
仕事の時間も含めると、生活の90%以上を写真が占めているように感じます。営業や打ち合わせなどで遠方へ出かけることもありますが、その際にもカメラを持っていくようにしています。移動中に気になった場所を見つければ、撮影のために改めて訪れることもあります。そのため、私にとっては日々の移動そのものがロケハンのようなものです。実際にシャッターを切っている時間だけでなく、日常の中で風景を見つけ、撮影する場所を考え、再びその場所を訪れることも含めて、写真と向き合っているのだと思います。
── 普段どのようなカメラやレンズを使っていますか。また、機材を選ぶときに大切にしていることはありますか。
2026年10月現在、主にニコンのZ5とZ50、フィルムカメラのFを使用しています。以前使用していたGFXは故障したまま修理できていないのですが、今後はGFX100RFをメインのカメラとして使っていく予定です。機材については、現在使用しているものに加え、今後どのようなカメラで自分の作品を表現していくかも考えているところです。
写真と向き合うこと
── 京都芸術大学で作品を見せ、他者から批評を受けるようになったことで、それ以前の写真との向き合い方は変わりましたか。
結論から言うと、大きく変わりました。以前は、自分が撮りたいものを撮ることが中心でした。しかし、大学で作品を他者に見てもらい、意見や批評を受けるようになったことで、写真は自分だけで完結するものではないと考えるようになりました。自分の作品を他者に見てもらい、意見をもらうことは、自分では気づけなかった視点を知るために、とても重要なことだと思っています。私はもともと口下手で、言葉の引き出しも多い方ではありません。そのため、他者からの意見をまず素直に受け止め、自分の中で考えることを大切にしています。それは、自分にできる一つの行動でもあります。他者の意見を受けることで、作品の内容や表現について、以前よりも真摯に向き合えるようになりました。写真を学ぶことは、技術や表現を身につけるだけでなく、自分自身を見つめ直すことでもあると感じています。私にとって、大学での経験は写真だけにとどまらない、人生の勉強にもなっています。
── ご自身を「写真家」「カメラマン」「フォトグラファー」どれだと思いますか。あるいはどう定義しますか。
正直なところ、これは今回の質問の中でも一番難しい問いです。自分自身を「写真家」「カメラマン」「フォトグラファー」のどれと定義するのか、今の私にはまだ明確な答えがありません。ただ、将来的になりたい姿はあります。それは、写真を専門的に学び、作品そのものだけでなく、その背景にある作家の思想や社会との関係性まで読み解き、写真の持つ価値を他者に伝えていく、写真に特化したキュレーターです。写真を撮ることだけにとどまらず、写真という表現を深く理解し、それをどのように社会へ提示し、次の誰かへとつないでいくのか。そうしたことにも関わっていきたいと考えています。とはいえ、今はまだ学ぶべきことが多く、自分の表現についても探求を続けている段階です。そういう意味では、現時点の自分を定義するならば、「写真家見習い」が一番しっくりくるのかもしれません。ただ、肩書きを決めることよりも、写真と向き合い続けること、そして写真を通じて何を問い、何を伝えられるのかを考え続けることのほうが、今の私にとっては大切です。いつか自分の肩書きを迷わずに答えられるようになるのか、それとも肩書きにとらわれない立場にたどり着くのか。今はその答えも含めて、写真を学び、実践を重ねているところです。
── 今回はありがとうございました。
ありがとうございました。
インタビューを終えて
オオキさんには、少し不思議なところがある。写真については驚くほど熱心で、生活の大部分をそこに費やしているのに、自分自身については簡単に言い切ろうとしない。
自分が正しいと思っていたことにも疑問を向けるし、他者から意見を受ければ、まず受け止めて考える。作品の中に矛盾があっても、無理に整合性をつけようとはしない。分からないものは、分からないままもう少し見てみる。オオキさんの写真には、そうした性格がかなり素直に表れているように思う。
一方で、決して受け身な人ではない。気になった場所があればもう一度訪れ、理解できないことがあれば学び続ける。写真集をつくる相手についても、一冊だけの関係ではなく、その先まで付き合えるかを考える。慎重ではあるけれど、一度大切だと感じたものには長く向き合う人なのだろう。
『Artifacts in the mountains』も、そうして生まれた作品なのだと思う。ゴミを拾う人が、ゴミを撮る。その矛盾から逃げずに見続けているうちに、問いは「ゴミとは何か」から「自然とは何か」「風景とは何か」「美しいとは何か」へ広がっていった。
答えを持っているから撮るのではなく、まだ分からないから撮る。オオキさんにとって写真は、自分の考えを示すためだけのものではなく、自分自身の考えを確かめ、時には疑い直すためのものでもあるのだと思う。
