田中伸顕さん『Quietly there』出版記念インタビュー

2025年3月15日、無幻舎より写真集『Quietly there』を刊行しました。

東京郊外の何気ない街の風景を、静かに、淡々と写し取った一冊です。

一見すると「なぜこの風景を撮ったのだろう」と感じる写真もあります。けれど、話を聞いていくと、その視線の先には、郊外の変化や衰退、記録と記憶、そして写真を一冊にまとめることについての田中さんなりの考えがありました。

今回は『Quietly there』について、田中さんご本人にいろいろと聞いてみました。(メールインタビュー)

聞き手:武田幸丈

『Quietly there』について

── 『Quietly there』は写真を知らない人が見ると、よくわからないです。そういう人に向けて、わかりやすくご説明いただけますか?

自分が今住んでいる地域を中心に、令和の東京郊外を撮り歩いた街風景写真です。 地方で過疎化が進んでいるのに対して、東京には人口が集中し増え続けているというイメージを持つ方は多いと思いますが、それは23区内のことであって、市部(23区外)の人口は減っていると言う調査もあります。

実際に郊外を撮り歩くと、いわゆるニュータウンとして昭和中期に開発された団地では少子高齢化が顕著に進行していると感じます。公園には子供の影も少なく、住人は老いていく。総じて言うなら、東京郊外は今衰退の下り坂にあると言えるでしょう。しかし一方、今も小規模な開発はあちこちで進んでおり、ある区画では昨日までの畑地に新しくて同じような外観の家が立ち並ぶ、と言う光景もよく見かけます。

都市というのはゆっくりと、ある部分は新しくなり、ある部分は古びて行く、その変化が生み出すまだら模様でできているものだと感じます。数十年と言う年月は、街が開発され、衰退し、また新しいものができる、そのサイクルの一部であり、そして街はその変化を静かに、ただあるがままに受け入れている・・・そうした風景をカメラに収め、東京郊外の現在地を私なりの視点で提示する、それがこの写真集のテーマです。

被写体には古いものと新しいもの、その中間にあるものが混在しており、人が写っていないのは人口減少局面にある郊外の実情を表現しようと言う試みです。開発は人間が行い、住まなくなるのもまた人間です。大きな時代の流れの中、そのこと自体に是非は無い。なので写真表現としても、いかにも劇的に見える構図や光を避け、淡々とフラットな視線で撮影することを心がけました。ただそこにある、今は下り坂にある静かな街景。華やかではない東京の一面を感じ取っていただければ幸いです。

── 田中さんがおっしゃる“まだら模様” は長く暮らしている場所だからこそ見えるものでしょうか。逆に見慣れてしまって見えなくなるものがあるかもしれません。自分の生活圏を撮ることについて、どう感じていますか。

「まだら模様」は必ずしも長く暮らしていなければ見えないものではないと思います。私が撮るのは主に東京郊外ですが、神奈川や埼玉のいわゆる「ベッドタウン」も含まれ、範囲は意外と広いです。生活する上で常に立ち寄る場所だけではなく、初めての駅に降り立って知らない街をただ歩き回ったりもします。しかし初めての街であっても郊外は都市部とは違った間合いやスピードで変化していると感じます。

ある時以降、自分にとって初めて見る場所も、そこに住む人には当たり前の、全くの日常であって特別な風景ではない、と考えるようになってからは、自分の生活圏とその外の世界を分ける意識は無くなっていきました。結果としてこの本は特別感のない風景を集めた写真を集めたものになっています。生活圏もそれ以外の街も同じように感じると言うのは、私自身がこれまで仕事であちこちの街に住む境遇にあったため、「生活圏イコール思い入れの深い場所、例えば故郷」ではないことが関係しているかもしれません。

── 「劇的に見える構図や光を避け、淡々とフラットな視線で撮影した」ということですが、それでも、どこに立ち、何を画面に入れ、いつシャッターを切るかは田中さん自身が選んでいます。 フラットとはいっても主観は入るものでしょうか?

そうですね。ある条件を避けて、自分の意思を入れ込むという点で私の主観が入っています。どの街も同じように開発され個性が無くなっていく無常感のようなものを感じた時にシャッターを切ることが多いです。

── 『Quietly there』は「東京郊外の現在地」を残す記録でもあり、田中さん自身の視点による作品でもあります。「記録」と「作品」の関係性についてどのようにお考えですか。

私は写真は第一義的には記録であると考えています。その記録されたものが作品性を持つことがある、あるいは作品性を持てるように撮る、そういうものではないでしょうか。この作品は自然風景ではありませんが、風景写真的な作品性を持たせることができないかという点は多少意識しています。1枚1枚の写真が人を圧倒する力があるものになっているとは思いませんが、トータルとして作品に昇華できるのではないかと思っています。

── 「いい写真にはなるけれど『Quietly there』には合わない」と撮らなかった、あるいは写真集から外したなど、写真はどのように組み合わせていったのでしょうか。場所や撮影順、写真同士の関係、順番など意識しましたか?

場所や撮影順は意識していません。「フラットに」と伝えた通り、全編を通して起伏の少ない写真を並べましたが、その中でストーリーの入口と展開(ゆるやかなものですが)、そして静かで、郊外の現状を示していると私が思う、やや暗い結末になるような順序を考えました。

── 『Quietly there』には静かな時間が流れているように感じます。ページをめくる速度や、写真と写真の間に生まれる「間」は意識しましたか。

速度は見る人によって異なって良いと思いますが、先ほどの質問にもあったように順番を意識しつつ、見開きの2ページ単位で何かしらの意味を持たせることができないかと考えていました。

── 街の衰退を撮りながら、その風景をつい美しく撮ってしまうことはありませんでしたか。

あります。これには2つ側面があって、まず1点目は、この作品には、SNSで「いいね」が多く集まるような「上手い」「きれい」な写真は撮らないつもりで取り組みましたが、それでも一般的に「きれい」と思われるであろう光景や光に出会えば撮ってしまうことはあり、そういった写真は選ばないようにしました。2点目として、いわゆる「きれい」を避けることを是として撮影を続けるうちに、逆にそうした光景を美しいと感じてしまうことが何度もあり、自分でも混乱したことがあります。人が見て「美しい」と思われやすいかどうかは別として、自分としてはやはりその光景に惹かれて撮っているのだ、と撮影しながら気づいたような次第です。

── 「Quietly there」という言葉は作品内容とよく重なっています。なぜ日本語ではなく、この英語のタイトルを選んだのでしょうか。

日本語と英語両方でいくつもタイトルを考えました。ただこの作品を表すものとして、日本語にするとどうしても長くなったり、くどく説明しすぎるものしか思い浮かばず、逆に郊外の街がただ「静かにそこにある」ことだけを大枠として示して、あとは見てくださる方にゆだねよう、と考えた時に納得できるものとしてこのQuietly thereが一番しっくり来たのでこれに決めました。今となっては長い日本語でもよかったかもしれないとも思ったりもしますが、このタイトルは気に入っています。

── 撮影したときには何でもない風景だったものが、数年後に振り返ると重要な写真になっていることもあると思います。街を撮るうえで、時間が経つことで写真の意味が変わることを意識していますか。

例えばこの写真集の後半に、手前を道路が横切り、その向こうに立入禁止の草地、奥にマンションが見える写真があります。これは多摩ニュータウンの某所で撮影したものですが、その緑の更地が元は小学校だったということに衝撃を受けました。そこまで子供が減っているのかという思い。加えて言うと、私が卒業した大阪の小学校は、建物はそのままに地域の交流センターのようなものとして活用されているのですが、ここでは人の思いの詰まったはずの学校を取り壊してしまうのかと言う驚きと、更にはこれを撮った1年後には同じ場所に新しいマンションの建設が始まっていたという現実があります。私には在りし日のその小学校を写真に収める機会はありませんでしたが、もしかするとこの更地の写真は、これを見た誰かの心に何らかの感慨をもたらすかもしれません。それは今建設中のマンションに近い将来どこかから移り住む人が持ち得ない感情です。写真の意味は見る人によって変わりますし、時間の経過によっても変わります。写真というのは過去の瞬間を詰め込んだ缶詰のようなもので、開けるとその時代の「記録」が「記憶」とともに甦る、そういったことがあります。時間が経つことで写真の意味が変わることを意識していますか、という問いへの回答としては「撮る瞬間には意識しないこともある。でも写真の記録性は見る人に様々な意味をもたらし得る」とさせてください。 なお、見る人に起こるかもしれないそうしたセンチメントをいちいち説明することなく、声高に訴えることもせず、ただそこに静かにある光景として提示する、それがこの写真集を作る際の基本的な考え方です。

「Quietly there」より

写真を始めたこと、続けていること

── そもそも田中さんが写真を撮り始めたきっかけは何だったのでしょうか。 

私はカメラメーカーに勤務しています。カメラメーカー社員がかならずしも皆写真好きで普段から作品作りをしているわけではなく、私も長らく旅行や行事の際にカメラを持ち出す程度でしかなかったのですが、2000年代にいわゆる「コンデジ」を各社が次々と発表していた頃、ただ単に簡単なカメラでパシャパシャ撮るのではなく、写真をよく知ることが今後のメーカー社員には必要なのではないかと考えるようになりました。それでも最初は撮るのではなく「写真家はなぜ撮るのか。撮り続けるモチベーションは何なのか、写真家の考えを知りたい」という興味から、自分ではあまり撮らずに写真論や写真家が書いたものを読んでばかりいました。しかしやはり知識が多少なりとも付いて来ると実践したくなるのですね。2007年頃から次第に撮るようになりました。

── 仕事を続けながら大学で写真を学び、制作も続けています。生活の中で写真はどのような位置にありますか。 撮り続けているのはなぜでしょうか。

現在の日常生活と今撮っている写真が強く結び付いている、という感覚はあまり無く、それよりも一つのテーマを設定し、そこに今まで生きてきた中で自分に根付いた考え方を投影しようと試みている・・・結果としてそうなっていると思います。京都芸大で学ぶ中で、今の自分の興味が「郊外」にあると確認してからは、「撮影コンセプト」「その言語化」「実際の写真の出来」 を意識するのが習い性になっている感じです。撮り続けることで写真に対する自分の考えを深めて行きたい、という気持ちが毎週のように撮り歩くモチベーションとなっていると思います。

── SNSでは、一目で分かりやすい写真や、美しい写真が評価されやすいように思います。そうした現在の写真の見られ方について、どう感じていますか。 

どんな絵柄でもそれが刺さった人にはいい写真ですから、分かりやすい、美しい写真が多く撮られ、それを楽しむ人がいるのはごく自然なことだと思います。誰だって「凄い」「綺麗だ」「カッコいい」写真を撮りたいものです。ただ個人的にはあまりにも派手な色で「映える」写真にはあまり興味が湧きません。

── 写真以外では、普段どんなものに興味がありますか。映画、音楽、本、美術など、写真に直接関係のないものでも教えてください。

10代後半からクラシック音楽を聴き始め、結婚してから子供が高校を出る頃まではお休みしていましたが、ここ数年再び音楽を聴いています。今撮っている郊外のシリーズに合う曲として、「起伏が大きくなく、でもずっとたゆまずなだらかに流れている」ような音楽は無いかとあれやこれやを聴いた挙句、現代音楽の分野で興味深い作品をいくつか見つけました。特に大学の卒業制作時に最も聴いたのはジョン・ケージの「In a landscape」というピアノソロの作品です。 

In a landscape

── 田中さんは、ご自身を「写真家」だと思っていますか。 「写真を撮る人」と「写真家」の間には、何か違いがあると思いますか。

プロとして活躍している人にも、ご自身を「カメラマン」と規定する方も「写真家」と名乗る方もおられます。カメラマンという言葉には「私はアートとして写真作品作りをしているのではありません」という謙遜と、クライアントの要望に応え撮影の腕前を売るプロとしての矜持の両方が感じられます。私は依頼仕事をこなすには欠けているものがあり未熟です。自分の言いたいことだけを自分にできる範囲で作品にしようともがいている、という意味からは私は自分を写真家の端くれだと思います。「写真を撮る人」はスマホユーザーを含むすべての人だ、というのが現状だと思います。それと写真家を区別するのはテーマの有無でしょう。私も時と場合によって「写真を撮る人」としてスマホでお手軽に撮ることがよくあります。 

── 影響を受けた写真家や写真集があれば教えてください。また、どんなところに惹かれましたか。

「写真を撮り始めたきっかけ」の質問への回答中にある「写真家が書いたもの」には森山大道さんの本が多くあります。撮り始めた頃はモノクロ加工で「それっぽい」写真を作って楽しんでいました。大学で学ぶ中では、ロバート・アダムスと小林のりお両氏の、開拓される土地や、宅地造成され新しい街が造られるさまを淡々と捉えた写真に影響を受けました。あとはホンマタカシ、清野賀子のお二方です。 

森山大道「三沢の犬」

── 普段はどんなカメラやレンズを使っていますか。 また、その理由を教えてください。

勤務先がメーカーなので、マイクロフォーサーズの自社製機材を使っています。レンズは単焦点へのこだわりはそれほどありません。写真の上達方法として「まず(標準)単焦点で画角の感覚を体に叩き込む。ズームに頼らず自分が動いて撮る」と言われることがありますが、街中では思う場所まで寄れない・引けないことがよくあるので、広角ズームと標準ズームを使うことが殆どです。魚眼や超望遠など、人の見た光景とは明らかに違うものが写り、機材の存在(効果)を感じさせるレンズは今取り組んでいる作品には合わないと思っています。

── 最後に、『Quietly there』を一冊にまとめ、出版したことで、周囲からはどのような反応がありましたか。また、今回の出版を経て、今後取り組んでみたいことがあれば教えてください。

地味で一見すると面白味に欠ける写真だという自覚はあるのですが、意外にもそういう写真が好みだという方がいらっしゃって、写真展を行った会場でも購入してくださった方が多かったのはありがたく嬉しいことでした。今は同じテーマで撮り続けながら、シンプルに郊外の現在地を示す以外の要素を入れ込むことはできないかと思案しているところです。ある程度まとまれば、また本を作り展示もやりたいと思っています。

── この度はありがとうございました。

ありがとうございました。

インタビューを終えて

田中さんに対しては元々、思慮深い人という印象を持っていた。今回の話を聞くと写真を撮ることについても、作品としてまとめることについても、まず自分なりの考えを組み立て、それを言葉にしようとする。実際、写真を本格的に撮り始める前から「写真家はなぜ撮るのか」を知ろうと写真論や写真家の文章を読んでいたという。現在も「撮影コンセプト」「その言語化」「実際の写真の出来」を意識しながら撮り続けているという話からも、その姿勢はよく伝わってくる。

話しぶりには、自分を必要以上に大きく見せようとするところがない。自身を「写真家の端くれ」と言い、写真についても「1枚1枚の写真が人を圧倒する力があるものになっているとは思わない」と語る。一方で、写真とは何か、なぜ撮るのかということについては、自分なりの考えをはっきり持っている。控えめではあるけれど、曖昧ではない。

静かに考え、簡単には答えを決めず、自分自身の考えさえ疑いながら、それでも撮り続ける。『Quietly there』というタイトルは、東京郊外の風景だけでなく、田中さん自身の佇まいにも、どこか重なっているようだ。